1989年F1Australia GP観戦記。ある雨のレースの目立たないエピソードを紹介。

1989年F1Australia GP観戦記。ある雨のレースの目立たないエピソードを紹介。 スポーツ
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1989年F1Australia GP観戦記。ある雨のレースの目立たないエピソードを紹介ということで、思い出話をしていきたいと思います。

今から34年前の事になりますが、20代前半だった私はその前々年から放映が始まったF1中継に魅せられ、1989年の一年間をAusutraliaで過ごす機会を得ました。

南オーストラリア州都のアデレードは落ち着いた雰囲気の美しい街です。

町おこしで州政府がF1GPを誘致したところ、最終戦に日程が組まれたおかげで毎年必ず名勝負が繰り広げられ、この街で開催されたほとんどのレースがファンの記憶に伝説として残っています。

1989年も、ある一つの記憶に残るレースでしたが、ひっそりと身を引いた名ドライバーの引退等の目立たないエピソードを観戦記をまじえながら見ていきたいと思います。

 

1989年当時のF1の状況

フジテレビでF1の地上波放送が始まって3年目。

バブル景気の勢いが絶頂で日本のHondaエンジンが他を寄せ付けない強さでF1を席巻していた時代です。

加給ターボが禁止になり、エンジンは自然吸気NAに統一されましたが、Hondaの技術力はまだまだアドバンテージを保っていました。

前年度チャンピオンのアイルトン・セナとベテランチャンピオンのアラン・プロストとの関係がシーズン途中から上手く行かなくななって、人間関係がチーム運営だけでなくF1回を巻き込む大きな流れをはっせいしていました。

この年、フェラーリのステアリングに採用されたパドルシフトが市販車に当たり前の装備として普及しはじめた瞬間でした。

 

アデレード市街地サーキット

アデレードの中心部は1.6キロ四方の碁盤に整えられてい、その周りを公園や競馬場の芝生の緑が囲んでいるコンパクトで美しい街です。

街の東側の緑化ゾーンに市街地コースが設営されます。

GP開催ひと月前ぐらいから徐々にサーキット設営工事が始まり、なんと一般の見物はフリーでコースの中を自由に歩くことができました。

もちろん工事車両には注意をはらいながらですが、コース幅が広いのですぐに退避できるので、安心できます。

 

パドックに先入りしていたBenettonチーム

グランプリデイの前日だったと記憶しています。

ほとんど工事の出来上がったサーキットを興味しんしんで歩いておりました。

さすがにパドックは立ち入り禁止でしたが、ホームストレートへは入れましたので、先入りしていたBenettonチームの前で足がとまりました。

日本人メカニックの津川哲夫さんが準備をしておられたので、お忙しいとは思いながら一言二言挨拶をして写真撮影に応じていただいたのですが、にわかファンにとって最高の思い出です。

 

1989年F1Australia GP観戦記。

11月ある週末の金土日の3日間がグランプリデイとなります。

戦車やバイクのパレード、カートやモデルチェンジしたばかりのスカイラインによるワンメイクレース、軍用機のデモ飛行等々、サポートイベントが盛りだくさんで晴天のうちに始めの二日間がすぎていきました。

 

予備予選。がんばれ鈴木亜久里。

当時、グランプリに参加するチームが多数あり、39台がエントリーされていした。

30台で予選タイムを競うのですが、新興チームや弱小チームは予選出場権をかけて金曜日の朝8時から9時までの一時間で予備予選をたたかいす。

13台中、上位4台しか本予選に進めない厳しい関門です。

この年からF1のレギュラーシートを得た鈴木亜久里選手はウエストザクスピードチームで苦戦しながら、一度も予備予選を突破できないまま最終戦をむかえていました。

一番長いブラバムストレートエンドのブレーキングポイントの席で観戦しておりましたが、亜久里さんの車はひいき目に見てもスピードがなく、明らかにほかの車より遅いコーナーリング速度が素人でもわかります。

セッションが終わり、予備予選通過の掲示板には番号はなく、クラッシュしたマシンがクレーンに吊られて目の前を運ばれて行ったときに亜久里さんの車であることがわかりました。

辛いデビューの年でしたが、その後の亜久里さんの活躍をだれが予想できたでしょうか。

亜久里さんは翌年大化けすることになります。

 

フリー走行。予選

金曜土曜は気持ちの良い晴天のなかで各セッションがおこなわれました。

注目は前戦スズカの不透明な裁定がもやもやのマクラーレン、セナプロ対決。

二人の走りは同じエンジンとマシンのはずなのに全くちがいます。

同じHondaエンジンですが、近ずいてくる音でどちらかが判別できるぐらいちがいます。

いたわる様にアクセルを踏むプロスト、ギンギンの全快でぶっ飛んでいくセナ、アドレナリンあふれる二人のライバルの走りに気迫が感じられますが、フェラーリ・マンセルの鋭角的なステアリング捌きも見逃せません。

ミナルディーチームのマルティ二は、中堅チームながらピレリタイヤと車がマッチしたのか、ドライバーも腕前もピッタリとはまって後半戦は予選で上位を脅かす存在になっていました。

実際ストレートエンドで来ていて、明らかにほかの車より優れたコーナーリングがみてとれました。

我らがロータスの中島悟選手は調子の上がらないマシンで苦戦しながらなんとか予選落ちすることなく後方のグリッドを得ることができたようです。

 

土砂降りのレース

日曜日の本線当日、朝から暗かった空は泣き出して、午後からのレース開始時間に土砂降りとなりました。

スタート時間が少し遅れる場内アナウンスのあと何とか水しぶきを上げながらフォーメーションラップの隊列がゆっくり走ってきました。

あまりの雨量で危険を訴えるドライバーのボイコット騒ぎが起こっていたようですが、ホームストレートから遠い席には何も分かりません。

すったもんだの末、大雨の中スタートがきられましたが、アランプロストの車はありません。

レースの危険性をアピールする抗議のボイコットだったようで、当時は雄姿が見れなくてがっかりしましたが、今思えば勇気ある行動でそんな考えも理解できます。

 

三輪車のセナ、ピケとギンザ―二の目の前でのクラッシュ

無敵のセナのぶっちぎりの大雨レースになると思いかけていたところ、突然三輪車になった赤白マクラーレンの車が目の前を過ぎていきました。

前輪一つをクラッシュで失ったセナは戻ってくることは有りませんでした。

遅い車をパスするためにすぐ後ろに付くと、水しぶきで視界はゼロ状態になりますがそれでも勝利のために激走の手を緩めず、ガンガン攻めていたセナに不運がおそったようです。

なにか予感がして右から来る二台を見ていたところ、目の前で追突クラッシュがおこりました。

オゼラチームのギンザ―二に黄色いロータスのピケが追突、四方を確認しながら滑っていくギンザ―二選手がスローモーションでみえたきがします。

コントロールが効かない状況の中で周りを見渡しながら祈るような気持ちで止まるまでみていましたが、幸い二人とも止まった車の中から自力で出てきたので一安心です。

 

中嶋さんがやってきた。

調子の上がらないロータスのマシンで苦戦しながら、中堅ドライバーとして実績を残してきた中島悟選手は次の年のチーム移籍が決まっていましたが、日本人らしく立つ鳥跡を濁さずの精神でこのチームには恩義を感じていたようす。

レース中盤戦から「雨の中島」が目の前で実現していきます。

後方からのスタートで水しぶきはを上手く避けて、冷静に確実にラップを消化しています。

毎周姿を現してくれる中島さんに雨の中大声を張り上げて声援していましたが、届いたでしょうか。

一台ずつパスしてどんどん順位があがっていきます。

上位6位までの番号が掲示されますが、とうとう中島さんの12番が点灯。

雨は少し弱まってきましたが、やむ気配はなく降り続いていました。

レースは二時間ルールの終盤にかかり、中嶋さんはどんどん順位をあげていきます。

 

中嶋さん、行けるか表彰台

3位のを射程圏内に捉えました。

前のパトレーゼは大ベテランでそう簡単には抜かせてくれないのですが、テールトゥノーズになっていたので絶対いけると信じて祈るような気持ちで最終版を興奮マックスで観戦していました。

3位を追いかけ回す中嶋さんが頼もしくてカッコよくて、それでも抜けないパトレーゼ。

ずっと見ていたかったのですが、二時間ルールで無念の終了、中嶋さん、抜けませんでした。

それでも4位、なんとこの年初めての6位以内入賞でポイントを獲得。

更にこの雨のレース中、誰よりも速いラップタイムを記録したことで、Fastestlap Satoru Nakajima がF1の歴史にきざまれました。

 

1989年F1Australia GPある雨のレースの目立たないエピソードを紹介。

セナプロ対決が決着して、中島さんが4位になった伝説のレースでしたが、ベテランと名ドライバーがひっそり引退レースをむかえていました。

 

アルヌー・ギンザ―二・チーバーの引退レース

セナプロ対決の決着や中嶋さんの快走で記憶に残るレースになりましたが、それまでのグランプリシーンを下支えしてきた名脇役のベテランドライバーがひっそりと去っていった例年の最終戦でした。

 

ルネアルヌー

70年代後半からルノーやフェラーリの強豪チームタイトルに絡む活躍をみせたフランス人ドライバーのルネアルヌーですが、87年の頃には全盛期の勢いはなく、「妖怪通せんぼ爺」などとあだ名をつけられる迷ドライバーになっていました。

年齢t的な衰えは自然の流れなのですが、彼の実績は間違いなくF1の歴史をいろどってきました。

F1パイロットはそれだけでリスペクトに値するのでドライバーラインナップを勉強していて彼の不思議な魅力にひかれていました。

 

ピエルカルロ・ギンザ―二

粗野なフランス人と言われながらもストイックに晩年までレースに打ち込んだ老兵の引退レースに気が付いたファンは少なくないとおもいます。

オゼラチームのギンザ―二はF1キャリアの中でポイントを取った事は1回だけでした。

しかしいぶし銀の中堅ドライバーの存在感は無視できないものがありました。

最終戦の雨の追突クラッシュで片足を打撲したようですが、自力で車から降りるすがたが、雄姿に見えました。

 

エディー・チーバー

70年代の終盤に20歳でF1にデビューした才能あるアメリカ人ドライバーで日本でも名前が知られていたようです。

中堅からトップチームまで移籍しながら、派手な活躍は無かったようですが表彰台の経験もあって渋いベテランドライバーとして記憶にのこっています。

中嶋さんとはライバルだったとおもいますが、この雨の最終戦でも胴体にデリブを挟み込んでしまった手負いのマシンで先行するチーバーを中嶋さんが追いかけ回し、パスするまでの数周のデットヒートを見せてくれました。

名脇役でしたが、渋いレース運びが持ち味の記憶に残るドライバーの引退レースに立ち会えて幸栄です。

 

JJレート予備予選奇跡の大逆転

新興オニクスチームかにシーズン後半から抜擢されたルーキドライバーのJJレートが予備予選をひっくりかえしました。

金曜日の朝、上位4台決定かと思われた終了間際、チームメートのベテラン ヨハンソンのタイムを上回り入れ替わって4位に滑り込みました。

よくある事と言えばそうですが、デビュー3戦目のフレッシュな新人がみせたパフォーマンスは衝撃的でした。

 

まとめ

1989年F1Australia GP観戦記。ある雨のレースの目立たないエピソードを紹介ということで、記憶をたどってみました。

1989年日本はバブルの只中で好景気に人々がわきたっていた特別な時代でした。

F1GPというヨーロッパの文化に果敢に挑戦したホンダが成果を収めたことからあの時代の日本人は自信を持っち始めたように思います。

海外旅行は近いものになっていましたがそれを実感したときに、時差が無くて一番近いF1GP開催国のAusutraliaへ見に行くことを思いたち、準備を始めたことを思い出しています。

平凡なある雨のレースで終わるだろうと思っていたところ、歴史的なレースに立ち会う事が出来たことは幸運であり観戦記として残しておきたいとおもいました。

30年以上前の出来事ですが記録映像も残っていて、目立たないエピソードさえも鮮明な記憶でもこっています。

F1ブームは上がり下がりをくりかえしながら、サッカーのJリーグよりも少し長い歴史をきざんで日本のスポーツ文化になりました。

角田裕毅というかっこいい青年が現役F1パイロットとして活躍中です。
機械、人、経済が総合で競争するところに生まれるドラマがF1の変わらぬ魅力なので、思い出を抱きつつ、これからも注目していきたいと思います。

 

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